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【開学75周年企画】あのころ ― 第4回「目白の街と学生」

桑尾 光太郎 (学習院アーカイブズ)

2024.09.18

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令和6(2024)年、学習院大学は開学75周年を迎えます。
「あのころ」は、学習院大学の歴史を通して戦後日本の高等教育の一端を振り返るコラムです。

 学習院大学が開学した1949年、文政学部・理学部の2学部4学科に1・2年生あわせて406人が入学しました。戦後の経済復興や高等教育機関への進学者増にともない学部学科を増設して入学者を増やし、学部生の在学者は1966年に5,000人を超え、1994年には9,000人台に達しました。ちなみに2024年度の大学在籍者は学部生8,924人、大学院生483人です。

 学生数の増加は、キャンパス周辺での飲食店をはじめ書店や雑貨店、娯楽施設などさまざまな店の開店につながります。お茶の水界隈や早稲田通り、池袋の立教通りなどが学生街として知られますが、目白通り沿いにも目白駅の西方に学生の溜まり場が形成されていきました。その様子を垣間見ることができる資料を紹介します。

 【図1】は『学習院新聞』1959年4月8日特集号に掲載された「戸山目白近辺食べある記」という小さな囲み記事で、「学内の蓁々会食堂、売店だけでは施設の点で新入生諸君の食欲を充すに十分ではないので、本院学生が目白及び戸山近辺で昼食、喫茶、コンパによく利用する店のうまいものとその値段を紹介することによって新入生諸君の便をはかることにした」とあり、コーヒーやラーメン・カレーライスなどの値段のほか、「コンパ100名迄」という大箱の寿司屋も紹介されています。「椿山荘 コンパ3,000名迄」とも記されていますが、当時学生が椿山荘でコンパをできたのでしょうか。また、【図2】『輔仁会雑誌』(1958年12月)でも喫茶店が紹介されています。

【図1】「戸山目白近辺食べある記」(『学習院新聞』1959年4月8日特集号)
【図2】『輔仁会雑誌』180号(1958年12月)

 【図3】は、学習院大学でも紛争が起きた1969年発行の新入生歓迎パンフレット『激流に抗して』に収録された、「学習院大学付近図」です。当時目白通りをはさんで通用門(西門)の向かいには1954年に開設した「目白市場」があり、取り壊し直前の頃には【図4】のように店が並んでいました。

【図4】卒業アルバム(1972年)

 その跡地には目白コマースビルが1973年に建設され、「目白市場」の名を継承した地下食料品売場や雑貨店、食堂などが入りました。個人的には「ポケット」という喫茶店、中華の「中央飯店」が印象に残っています。コマースビルも2012年に解体され、2014年にトラッド目白が完成し現在に至ります。

【図3】「学習院大学付近図」(新入生歓迎パンフレット『激流に抗して』1969年)

 1970年代以降には、大学卒業アルバムに学生生活のひとこまとして目白駅周辺や店舗の写真、コーヒーやお酒を楽しむ学生のスナップ、冒頭にも掲げた目白界隈のイラストマップ【図5】が掲載されるようになりました。「学生街の喫茶店」(1972)という歌がヒットしましたが、思えば1970年代から90年代頃が、学生街としての目白通りの最も賑やかな時代だったのかもしれません。

 【図5】は1980年代に在学していた筆者にとっても見ていて飽きないイラストで、当時サークルやゼミなどのグループは大抵、行きつけの喫茶店や定食屋、居酒屋をもっていたのではないでしょうか。

【図5】卒業アルバム(1976年)

 とはいえこのイラストで紹介された店のうち、2024年現在残っているのは8軒を数えるのみです。「時は流れた」といえばそれまでですが、近年は学生が気軽に入ることのできる庶民的な店は数を減らし、とくにコロナ禍以降は学生と街との関係が稀薄になっているように思えます。開学75周年を迎えた学習院大学とそこに集う学生が、目白の街を盛り上げていく存在となっていくことを願っています。


 「目白の街と学生」お読みいただきありがとうございました。
 今回の第4回を以て、開学75周年企画「あのころ」の連載は終了します。下記ページでは全4回のコラムをまとめてお読みいただけます。
 卒業生に学習院大学での日々が今の自分にどのような影響を与えているかうかがったインタビュー動画「こころある革新」も掲載しています。
 ぜひご覧ください。